選挙雑記1 〜或る友人への書簡


1、 右傾化における海外の見方。それによる現実的に起こること。


 中国や韓国のみならず、欧米でも日本は「右傾化」してきている、と言われているようです。これは民主党政権尖閣諸島国有化に端を発し、その後の一連の安倍氏の「国防軍」「尖閣諸島公務員常駐」「憲解釈変更による集団的自衛権確立」「憲法改正(主に96条⇒9条)」などの各発言を指しているのだと思います。


 ただ日本にいると、そこまで「右傾化」しているとも思わないし、中国や韓国が懸念する大東亜戦争時のような軍国主義国家になる、とは夢にも思わないのではないかと思います。「日本が軍国主義国家になる」ということを信じない国民は、日本国民自身ではないかと思います。戦後日本教育の成功でしょうか(笑)。


 しかし、問題は日本人自身が自分たちの非危険性を自覚してて、大丈夫だ、と思ってても、他国が「危ない国だ」という認識をしている限り日本は「危ない国」なんだと思います。なぜなら、他国が日本を「危ない国」という扱い方をするからです。現実は、「自分で思う自分」によっても動きますが、「他人が思う自分」によっても動きます。恐らく、「他人が思う自分」の方が現実を動かす力は強いのだと思います。現実は、社会を含む他人と関わることの方が多いし、影響がありますから。ヤバい奴は、ヤバい奴という認識/扱いを受け、その扱いこそが現実そのものになる、という個人のレベルと同じです。


 日本は「右傾化国家」「ヤバい国」という認識を、各国からされはじめています。特に自民党安倍氏は「極右」とみなされています。その結果どのような扱いを受け、どのような現実が起こるか、注視したいです。



2、 日本維新の会の手法による、世の中の雰囲気の悪化

 日本維新の会が53議席をとりました。僕なんか、えらいとったなあ、と思ったのですが、100議席を狙ってたそうですね。少なかったのか、多かったのか分かりませんが、第三党になったことは事実です。もしかしたら、自民党と連立するかもしれませんね。


 僕は彼らの公約にはうなづけるところもあります。ただ嫌いです。人が嫌いです。橋下氏、石原氏、東国原氏などなど、嫌いです。人を小馬鹿にするからです。ある‘悪者’を見つけて、吊るし上げるからです。恫喝するからです。イジメの本質を持つ小学校のような集団です(笑)。


 ただ、個人的に嫌いだから、議席を取ったのは由々しき問題だ、とは思いません。(嫌ですけど笑)僕が彼らが議席をけっこう取ったことで問題だ、と思うのは、上記の彼らの性質が世の中的に‘善’になってしまう可能性を秘めているからです。議席数を多くとって、上記のようなことを言う人、実行する人が大量に発生すると、それがあたかも普通、または良いものと思われるようになる可能性があることは否定できないと思います。


 1985年、阪神タイガース西武ライオンズ日本シリーズを戦いました。その時の阪神には代打で川藤さんがいました。その時の川藤さんの言葉が印象的です。「管理野球と言われる西武に阪神が負けてしまったら、管理野球が世の中で‘善’になってしまうだろ。それが俺は嫌なんだ。だから勝ちたかったんだ」という内容でした。こんなことを考えて野球をやっていたのか、と感動しました。


 日本維新の会が影響力をもつ議席をもてば、僕も川藤さんと同じ危惧をもちます。「日本維新の会が力を持てば、彼らの言葉、方法が‘善’になってしまう。それだけは嫌だ」僕は日本維新の会流がまかり通る世の中では生きたくありません。



3、 若手論客の活発なところを見られてよかった


 これは主にラジオですけど、政局的なところとは軸が違う今後を20〜30代の若手論客(思想家、作家、社会学者、ジャーナリストなど)が話し合っていました。何だか心が明るくなりました。面白かったです。今回の選挙で唯一の心の灯だったかもしれません(笑)



4、 日本人には「この人がいっちゃったらしょうがねえ」の政治が合ってるのではないか。


 ここ数年、幕末〜明治初期〜昭和前期の勉強をしています。もともと歴史が好きなのもありますが、「日本人とはどういうものか?」が知りたいからです。それにはまず、大変革が起こった幕末、明治初期、そして、恐らく民族的因習が最も鮮明にでた昭和初期の戦前時代を勉強しようと思ったわけです。


 現在のところのその答えは「日本人には現在のような議会制民主主義は合わない。緩やかな独裁国家が良いのではないか」ということです。下世話な言葉で言えば「この方が言うんだからしょうがねえ」という人を頭に頂く統治体制が合っているのではないか、と思います。


 それが端的に出た場面は、大東亜戦争終結の時です。原爆が落とされた後でも、誰の目から見ても明らかに負けなのに、それでもやめられませんでした。軍人の思惑、政治家の思惑が入り交じっていたのでしょうが、その最たる理由は全ての人に「全体の責任を取ることができるという立場にいない」、という認識があったからだと僕は考えます。この部門の責任は取れるけど全体は無理、という人の集まりが時の内閣だったのではないでしょうか。(これは属人的なっものではなく、日本の政治機構の組織そのものの性質だと思います)戦争終結の決断を下したのは昭和天皇です。「君臨しても統治せず」の原則を破って、最後は昭和天皇のご聖断で戦争終結は決定しました。やっと全ての責任を取れる(っぽい)方が登場したわけです。そして、その方の言葉には「はは〜」と水戸黄門のように土下座をして、戦争は終わりました。


 日本人が作る組織には全体の責任を取れる人を置かないようになっているのではないか、と推測します。各部署の責任者を置くけど、それらを統べる全体の責任者を置くのが苦手なのではないでしょうか。なんでだかわからないですけど。だから、‘超然的な存在’をつくることは実はいろんな組織でなされているのだと思います。野球界だったら、王さんと長嶋さんですね。サッカー界だったら三浦知良さんですね。「この人が言ったんならしょうがねえや」という存在を作ることが、日本人が考える組織なんだと今は思っています。

 
 最初に戻りますが、そういう存在を介在させない現在のような議会制民主主義は日本人には合わないような気がする、というのは上記のような理由です。直接今回の選挙とは関係ないのですが。まさに雑記!(笑)