今日の一曲〜「My Generation」The Who

ラジオを聴いていたら流れてきました。
身体が熱くなりました。ほんとに熱くなったんです。
グッとこみ上げてくる何か。


「My Generation」に限らず1960、70年代の音楽は、ラジオでかかることを一つの対象として作られていたことでしょう。
長さだったり、曲展開だったり、歌詞だったり。


ラジオで好きな音楽を偶然に聴くことには、感動します。
好きな曲であること、偶然であることがその主な理由だと想像しますが、1960、70年代の曲だとそれがよりいっそうのものになります。
なんでだろう。


それらの曲がラジオ用に作られていたからなのか。
それもきっとある。
けど、もっと大きな理由は、それらの年代の曲とラジオが切っても切れない関係にあった、という‘物語’にあるのではないだろうか。


今の時代、合法、または違法に、好きな時に好きなところで、無料でも音楽を聴くことができます。
その技術の進歩は実に素晴らしいものです。
しかし、それが音楽にとって幸せだったのか、僕にはよくわかりません。


現在、音楽は「聴く人のもの」になっています。
聴く人が主導権を握って、自分の都合の良いもの、ことに使う時代です。
音楽は道具になってしまった。


自分が自由に使える、ということは素晴らしいことかもしれないけど、
それで失っているものも多い。
自由にできない状態に置いておくことによる利益の方が大きいこともある。


音楽(に限らず芸術全般)は、自由であった方が良い。
音楽自体が幸せであった方が良い。
僕たちは音楽の支配下にあった方が良い。
音楽の恵みはそういう状態によって、始めてもたらされるのではないだろうか。
僕はそんな風に考えています。


ラジオという、偶然性、一回性を意識せずにはいられないメディアによって、僕はそこから流れて来た曲に心身ともに熱くさせられるのです。
感謝せずにはいられないのです。
「My Generation」を始めとする1960、70年代の曲は、何十万回、何百万回とそんな感謝を捧げられたことでしょう。
祝福された音楽。
その‘物語’に僕は心身を熱くして、跪くのです。