一昨日買った本

([も]3-1)恋文の技術 (ポプラ文庫)

([も]3-1)恋文の技術 (ポプラ文庫)

久々に森見登美彦さんの作品を読みたいな、と本屋さんへ。
本屋をうろついてて、発見したのがこの作品。
早速購入し、早速読み始めたのですが、
なんか話を知ってる。
このあと起こることも断片的にだけど知ってるのを怪しみ、
部屋の本棚をチェックすると、ありました『恋文の技術』。
しかも、ハードカバー!
ご丁寧にハードカバーで以前買っていました。
おふ!と思いつつも、オモチロイので、最後まで読みました。


森見さんの文章は伝播力がとても強いと思います。
それは高倉健さん主演のヤクザ映画を映画館で観たあとのおじさん、
とでも言ったらいいのでしょうか、
真似したくなります。(橋本治さんも同様です)
でも真似をするとすぐバレる文体でもあるので、
それはそれで恥ずかしいです。
『四畳半王国見聞録』という本も出てたのですね。
『四畳半神話体系』とカバーが同じような気がしたので、
続編だか何だかわからず、とりあえず買わずにおきましたが、
まったくの別物とわかり、今後購入します。


あ、僕は決して恋文の武者修行をしようと思ってこの本を買ったのではない、
と一応言っておきます。


悼む人〈上〉 (文春文庫)

悼む人〈上〉 (文春文庫)

悼む人〈下〉 (文春文庫)

悼む人〈下〉 (文春文庫)


ハードカバーで平積みされていた頃から気になっていた本が
文庫になっていました。
‘悼む’という言葉が大好きで、それが気になっていた最大の理由です。
でも買わずにいました。
なんか、タイミングじゃないな、と思ったからです。
その思いはその後も続いていましたが、
今回本屋で目があった時に「あ、いまだ」と思い、購入しました。
なぜに今なのか、理由ははっきりとは言葉で説明できませんが、
「あ、いまだ」と感じることが度々あります。
それが‘正解’かどうかは知りませんが、
何かをする時、その感覚を重視するようにしています。


読み始めましたが、最初からゾクゾクします。
‘悼む人’の旅です。


その昔、18世紀江戸時代に、高山彦九郎という思想家の方がいました。
この人は、おばあさんが亡くなった時、3年間喪に服したそうです。
喪に服してます、と言って普通の生活をしていたわけではなく、
家の中に閉じこもり、外界との接触を断っていた程だそうです。
その当時でさえ、それは異常だったようで、周囲は止めさせようとしたようですが、
本人は3年間実行した、とのことです。
この長い期間は、中国朱子学のしきたりに従った、とのことです。
個人的哀惜のみの行動ではなかったようなのです。


‘悼む’とはこのような行為なのではないかと思います。
個人の愛情や惜別に対して祈るのではなく、
人間として、生物として、存在の奇跡として、
‘人間そのもの’が存在し、周囲に与えた影響、与えなかった影響、
現実に起こった事象などを想い描くこと。
そして、客観的な視点で事象を見つめ、主観的な視点で感謝を捧げる。
このような行為を‘悼む’というのではないか、と僕は考えています。
正直なことをいえば、何となくその定義というか、内容が頭の中に醸成されていながらも、それを表す言葉を長い間見つけることができなかったのですが、
本屋で『悼む人』という本が平積みされているのを見て、
「ああ、‘悼む’だ!」と、その言葉に出会ったのです。
‘悼む’という言葉に出会い、僕はやっと自分の頭の中で浮いていた事柄を
説明できるようになりました。
僕の世界が広がりました。


そして、実際にその本を読むタイミングになったことを嬉しく思います。